JAL123

1985年8月12日――
日本航空123便が、群馬県の山中に墜落した。
乗員・乗客、524名。そのうち、520名が命を落とした。

単独事故としては、世界最悪とされるこの墜落事故。
公式には「ボーイングの修理ミス」とされている。
だが、それだけで本当にすべてが説明できるのだろうか――。

現場に残された焦げ跡、焼け焦げた遺体。
しかし周囲の木々は、なぜか燃えていなかった。
無言で語るその異様な光景に、疑念が膨らんでいく。

事故ではなく、事件――
そう語る者がいる。
果たして、あの夜、何が起こったのか?

今回は、数々の証言と資料をもとに、
JAL123便の墜落を“第五の仏(ダイゴノホトケ)”の視点から紐解いていく。

第1章:墜落の夜

1985年8月12日 午後6時56分。
日本航空123便は、羽田空港を離陸した。
行き先は伊丹空港。
乗客509名、乗員15名――
合わせて524名の命を乗せたジャンボジェットだった。

だが、その機体は目的地にたどり着くことはなかった。

午後7時過ぎ。
突然、機体後部で異常が発生。
圧力隔壁の破損、そして垂直尾翼の損傷。
操縦不能となった機体は、空に描くように旋回を始める。

その姿は、まるで助けを求めるかのようだった。

「ジャパンエア123、コントロール不能」
そう管制官に伝えた最後の通信。

それが、この機体の“生きていた証”だった。

午後6時56分の離陸からわずか32分後――
午後7時28分。
群馬県・御巣鷹山の斜面に、機体は激突した。

520名が命を落とした。
単独機による航空機事故としては、世界最悪の惨事。

生き残ったのは、たった4名――
奇跡と呼ぶには、あまりにも重すぎる現実だった。

そしてこの夜――
「事故」は、やがて「事件」と呼ばれるようになる。
数々の謎と矛盾、そして闇に葬られた真実が
この夜を境に、静かに口を閉ざしていった。

第2章:遺体の不審な焼損

御巣鷹の山中に、墜落した日本航空123便。
現場に駆けつけた地元消防団の隊員たちが、最初に感じたのは――

強烈なガソリンとタールの匂い。

それは、飛行機の燃料が燃えたものにしては、異質な臭気だった。
そして彼らの目に飛び込んできたのは――

炭と化した、遺体の数々。

筋肉も、骨も、皮膚も、
まるで「焼却炉で焼かれたかのように」炭化していた。
医師たちは、検死資料にこう記した。

「これは“二度焼き”の痕跡がある」

それは、事故では説明がつかない現象だった。

不思議な点は、まだある。

炭化した遺体のすぐそばにある木々。
生い茂る枝葉には、焦げの跡ひとつなかった。

炎がそこにあったならば――
なぜ、周囲の自然だけが無傷だったのか。

ある遺体は、まるで整然と並べられたような位置にあった。
遺体は焼けている。だが、その真横にある木の皮は焦げていない。

焼かれたのは“人間だけ”。
そう思わせる、異常な焼損状況。

そしてもう一つ、語られぬ疑念がある。
生存者が発見されたコンパートメント――
そこに近い機体の部品には、燃料が残っていたはずなのに、
まったく燃えていなかった。

左の主翼は激しく焼けていた。
だが右の主翼には、焦げの痕跡すらない。

この“偏った焼損”。
自然火災では説明のつかない、不規則な燃焼。

そして――
ある生存者のすぐ傍にあった“ぬいぐるみ”は、無傷のままだった。

人が焼けて、ぬいぐるみが焼け残る。
――常識では、考えられない現象だった。

もしかすると、誰かが“意図的に”火を放ったのか?
火炎放射器――
そう語る者もいる。

燃料に混ぜられた、特殊な可燃剤。
気温マイナス40度でも着火可能なそれは、
木々ではなく、人間を選んで焼いたのだろうか。

この現場にあったのは、ただの火ではない。
“何か”を消し去るために仕掛けられた、第二の炎だった――。

第3章:自衛隊の奇妙な動き

事故発生のその夜――
群馬県上野村の住民たちは、墜落音を耳にした。
地響きのような音とともに、黒煙が山を覆った。

すぐに、村の人々は「自分たちの村に飛行機が落ちた」と通報。
だが、テレビの報道は「墜落現場不明」の一点張りだった。

なぜ、報道は事実を隠したのか?

その裏で、不自然な動きをしていた組織がある。
――自衛隊。

本来なら、即時に出動してもおかしくない“第一空挺団”。
習志野駐屯地に駐在する精鋭2000名。
夜間作戦能力を持ち、災害派遣の即応部隊である。

だが――彼らが現地へ動き出したのは、なぜか翌朝だった。

夜、彼らはなぜ動かなかったのか?

自衛隊幹部は、こう釈明した。

「ビデオ撮影で現地を確認し、山が険しくて厳しいと分かったのは翌朝でした」

――だが、信じられるだろうか?

自国の山の地形すら把握していなかったのか?
夜間に対応できる部隊が、なぜ明け方まで何もしなかったのか?

現場を訪れた地元の消防団は語る。

「生存者を助けたのは我々だった。
自衛隊は山頂から降りてきただけだった」と――。

なぜ、彼らは“山を下りてきた”のか?

さらに不可解なのは、事故発生直後に流れた「あるニュース」。
――現場で自衛隊員数名が“射殺された”という速報。

その報道は、直後に「誤報」として取り消された。

だが――
この情報を流したのは、民間ではなかった。
おそらく、防衛庁――つまり政府筋だった。

なぜ、政府がそんな“誤報”を流したのか?

ある仮説がある。

「これは“内部への警告”だった。
口外するな、喋れば命はない――
そうした“脅し”だったのではないか」

自衛官に向けた、無言の圧力。
事実を語ることを禁じた、国家からの命令――。

現場には、真っ黒に炭化した遺体。
だが、その横には燃えていない木々。

そして、なぜか燃えずに残された制服、
そして“行方不明”となった機長の服――。

救助が遅れた理由も、現場の状況も、
すべてが奇妙なほど、辻褄が合わない。

この“遅れ”は、本当に事故だったのか?
――それとも、時間を稼ぐための“戦略”だったのか?

この夜、助けを求めていた520の命に――
なぜ国は、背を向けたのか。

第4章:隠されたビデオと証言

群馬県・藤岡市。
一つの体育館が、突如として“遺体安置所”へと姿を変えた。

連日、真っ黒に炭化した遺体が次々と運び込まれ――
その場には、医師、警察、看護師、そしてボランティアたちがいた。

検死作業の記録として、あるビデオが撮影されていた。
撮影したのは、大学の法医学講師、押田茂美氏。
教育目的で使うため、彼は8mmビデオとマスターテープの計10本を――

警察に、善意で提出した。

だが、時は流れ、33年後。

押田氏はテープの返却を求め、群馬県警へ書面を送付。
すると、3人の警察官がやってきた。
だが彼らの口から出たのは――

「テープはあります。内容も確認しました。
あまりに凄すぎて、返却できません」

返却できない――?

それは“証拠物”だからではない。
あくまで「任意提出」された教育用資料。
法律上の所有権は、撮影者にある。

にもかかわらず、警察は返却を拒んだ。
押田氏が「文書で理由を説明してほしい」と求めても、
群馬県警の返答は――

「書類にはできません」

この国の“正義”とは、いったい何なのか?

なぜ警察は、その映像を――
見た上で、返さなかったのか。

そこに映っていたのは、遺体の状況だけではなかった。

当時の群馬県警本部長が、運輸省の役人に敬礼し、
「私がこの案件の担当となり、光栄に存じます」と話す姿も、
はっきりと記録されていた。

まるで、誰かの“監視の目”が、現場の一部始終を捉えていたかのように。

さらに――
新聞に掲載されたある写真。

そこに写るのは、歯型で身元特定を行った女性検視官、土井福子氏。
だが、掲載された写真と、元の写真とでは、決定的な違いがあった。

手前にあった“炭化した遺体”が、
意図的にカットされていたのである。

新聞に、説明の言葉はなかった。
「遺体の写真を省略しています」――その一文すら、ない。

まるで、はじめから“存在しなかった”かのように。

土井氏は語る。
「ご遺体の状態はあまりにひどく、歯型でしか確認できなかった。
遺族の方々から罵声を浴びることもありました」

検死の最前線に立ち、
彼女は128日間、身元確認を続けた。

その過酷な作業を記録した映像。
その映像が、“あまりに凄すぎる”という理由で封印されている。

そこに映っていたのは――
日本が抱える“もう一つの顔”だったのかもしれない。

証拠は消された。
記録は隠された。
言葉は、届かなかった。

だが、記憶は――決して、消えてはいない。

第5章:機長の服に残された謎

御巣鷹の尾根に散乱した機体の残骸――
そして、炭化した数百の遺体。

その中に、ある“違和感”があった。

機長――高浜正明氏。
123便の最高責任者であり、乗員524名の運命を託された男。

しかし、その遺体には、重大な“異変”があった。

遺体が発見されたとき、彼の身体は――
顎と歯の一部しか残っていなかった。

それだけではない。
彼の制服が、どこにもなかったのである。

コックピットには3人の乗員がいた。
機長、副操縦士、航空機関士――
いずれも同じ狭い空間にいたはずの3人。

だが、彼らの遺体の状態はまったく異なっていた。

副操縦士の遺体は炭化していたが、服は残っていた。
航空機関士も同様に炭化していたが、制服はあった。

機長だけが、服も、姿も、“消えて”いたのだ。

墜落の衝撃で脱げた――
そう考えるには無理がある。

副操縦士や航空機関士の服が残っていたのなら、
同じ空間にいた機長の服だけが“消える”はずがない。

何者かが――持ち去った。

そう考えるほかに、説明はできない。

では、なぜ持ち去られたのか。
その“服”に、何があったのか。

ある仮説が浮上する。

「機長は、最後の瞬間――
自らの制服に“何か”を書き残したのではないか」

墜落までの32分間。
機内では、乗客たちが遺書を綴っていた。

――ならば、操縦桿を握っていた機長が
自らの服に、何かを書き残していても不思議ではない。

真実、異常、そして“撃墜”という可能性――

それらが書かれていたとしたら、
その服は、極めて“都合が悪い存在”となる。

遺体の状態も異常だった。

副操縦士や航空機関士に比べて、
機長の遺体は炭化しておらず、骨もほとんど残っていなかった。

誰かが、その痕跡ごと“消した”のではないか――

さらに不可解なのは、検死番号。
機長の遺体は“125番”として記録されている。
つまり、比較的早い段階で発見されていた。

それなのに、制服の件は一切報道されず、
服の所在は、いまだ不明のままである。

機長の制服には、何が記されていたのか?
それを見た者は、誰だったのか?

そして、なぜ隠されたのか?

――答えは、いまも闇の中だ。

だが、ひとつだけ確かなことがある。

その“服”は、この国が隠したかった“何か”を、知っていた。

第6章:異物と火炎放射器疑惑

墜落現場の山中で、地元住民が“あるもの”を拾っていた。

それは、飛行機の残骸ではなかった。
金属とも、石ともつかない――
「塊」だった。

青黒く焼け焦げた、謎の塊。
上野村の村民が梅林の整備中に偶然見つけ、
調査のため、大学の工学部に預けられた。

その塊は二つに分けられ、「A」と「B」と名付けられた。

Aの塊は、ハンマーで叩いたところ、簡単に二つに割れた。
中からは、高純度のアルミニウムが検出された。
アルミ含有率は約87.9%。
当時のボーイング747に使われていた素材と合致する。

つまり――機体の一部だった可能性が高い。

だが、問題はそこではない。
Aの塊からは、**大量の「硫黄」**と、
さらに――ベンゼンが検出された。

ベンゼン――それはジェット燃料には含まれていない物質。
仮に高温で生成されたとしても、
自然に蒸発してしまい、“塊”として残ることはない。

では、なぜそこにあったのか?

その答えは――ガソリン

ベンゼンはガソリンに多く含まれている。
つまり、その塊は「ジェット燃料」ではなく、
ガソリンと何かが混ざったものによって焼かれた痕跡だった。

そして、もう一つの塊――B。

こちらは、Aと違い非常に硬く、
叩いても割れなかったため、慎重に削り取って調査された。

内部から現れたのは、金属光沢のある核。
組成を調べると、こちらもアルミニウムと硫黄、
そしてタールの成分が含まれていた。

ガソリン、硫黄、タール。
これらは、火炎放射器に使用される混合剤の典型成分だった。

自衛隊が使用する「M2型改良火炎放射器」。
その燃料構成と、ほぼ一致していた。

それは偶然なのか――?
否。疑惑はさらに深まる。

現場にいた消防団の証言。

「あの場所には、タールのような強い匂いが立ち込めていた」

そして、遺体の炭化の仕方――
人だけが、徹底的に焼かれ、周囲の自然は無傷だった。

まるで、何者かが“人間だけ”を選んで焼いたような形跡。

そして、その“炎”は夜を越えて、朝まで燃え続けた。

墜落直後、上野村上空には複数のヘリコプターが飛来していた。
目撃者の証言によれば――
事故当日の夜のうちに、現場に“何者か”が入っていた。

そして、燃料が尽きるはずの時間を超えて、
現場は10時間以上も燃え続けていた

湿気の高い山林で、なぜそれほどの炎が持続したのか。

答えは一つ。
――**「誰かが、火をつけていた」からだ。

それは、事故の証拠を“消すため”の火だったのか。
あるいは、何か別の目的があったのか。

塊の分析を行った大学側は、
最終的にこう結論づけた。

「両方の塊は航空機素材であり、
ガソリン由来の高温焼却の痕跡がある」

つまり、火災は自然発火ではない。
“誰か”によって意図的に作られた炎だった――

そして、そこに使われたのは――
**「兵器の火」**だった可能性がある。

第7章:証言者たちの記憶

あの夜――
群馬県上野村の空に、不穏な気配が流れていた。

午後7時前。
まだ夏の明るさが残る空の下、
多くの村民が、異常な飛行音を耳にしていた。

そのうちのひとり。
当時中学1年生だった少年は、こう証言している。

「飛行機が、ものすごく低い位置を、音を立てて飛んでいったんです。
すぐに、ヘリも何機か飛びはじめました。
そのあと、テレビで“日航機が消息を絶った”と知りました」

少年の父親は、地元消防団の一員だった。
翌朝5時、消防団として出動。
徒歩で5時間かけて、午前10時に現場へと到着した。

だが、もし場所が正確に伝えられていれば――
もっと早く、もっと多くの命が救えたかもしれない。

証言は、少年だけではない。

その村で暮らしていた82歳の女性。
事件当時は50代だった彼女は、こう語っている。

「あの日、娘たちが買い物帰りに見たんです。
真っ赤なものが、尾を引きながら空を飛んでいたと。
最初は“UFOか”と思ったくらい、不思議な光景でした」

“赤いもの”――
それは、複数の住民が目撃していた“飛行物体”。
火を吹くようにして、音もなく飛んでいったという。

(SE:遠くに尾を引くような「シュウッ」という音)

これは偶然か?
いや、同様の証言は他にもある。

赤く光り、尾を引く飛行物体。
それは、アフターバーナーを使用した戦闘機の特徴に酷似していた。

専門家はこう指摘する。

「F-4ファントムやRF-4偵察機が、
アフターバーナーを使用すると、
夜間には赤く尾を引くように見える」

つまり、その“赤いもの”は――
自衛隊機、あるいは米軍機だった可能性がある。

だが、事故直後、政府はこう言っていた。

「墜落現場はわからない。場所が特定できない」

それが事実なら、なぜその夜、
すでに複数のヘリや戦闘機が現場上空を飛んでいたのか。

証言は、そこに“誰か”が最初から真実を知っていたことを、
静かに、しかし確かに示している。

さらに、小学生たちが目撃した“赤い飛行物体”の記録は、
文集という形でまとめられていた。

だが、それが報道に取り上げられることはなかった。
記録されていた“現地の記憶”は、
国によって黙殺された。

なぜ、彼らの声は無視されたのか?
なぜ、あの空を飛んでいた“何か”に触れようとしなかったのか?

そして、こうした証言の数々は――
報道も、調査報告書も、一切取り上げていない。

それでも、消えない。
あの夜を目撃した人たちの“記憶”は、
今もなお、真実を伝えようとしている。

ただ、私たちが耳を澄ませるかどうか――
それだけが、問われている。


第8章:国家と報道の沈黙

520名の命が失われた、日本航空123便墜落事故――

だが、この“最大の惨事”を巡って、
政府と報道は、あまりにも静かだった。

本来、語られるべきことが、語られなかった。
映されるべきものが、映されなかった。

事件直後、テレビ局は“墜落現場不明”と繰り返した。
だが、その時すでに――
地元の消防団も、住民も、墜落場所を通報していた。

現場は“わかっていた”のだ。

それでも、報道は“知らないふり”を続けた。

そして、もうひとつの“操作”が始まった。
それは、映像と写真の“編集”という名の隠蔽。

検死作業に参加した歯科医が写った写真。
そのオリジナルには、手前に炭化した遺体が映っていた。

だが、新聞に掲載された写真からは、
その“黒い影”がカットされていた。

説明は、一言もなかった。

「事情により遺体の一部を編集しています」――
そう、ただ書くだけでよかったはずだった。

だが、彼らはそれすらもしなかった。

まるで、遺体が、そこに“初めから存在しなかった”かのように。

さらに、医師が記録した8mmビデオ。
検死作業や遺体の状況を記録した貴重な映像。

それもまた、警察によって“封印”された。

善意で提出された映像は、33年後も返されることなく、
群馬県警はこう答えた。

「あまりに凄すぎて、返却できません」

これは、“国家”が選んだ態度だった。
知っていて、語らない。
見えていて、伝えない。

この事故を巡る報道には、どこか異様な統一感があった。

・遺体の状態にはほとんど触れない
・救助の遅れも、あくまで“天候”や“山の地形”のせい
・現場での不審な動きは、すべて“誤報”として処理された

情報は管理され、
記憶は、“都合のいい形”で整えられていった。

そして人々の記憶から、
この事件の“核心”が、少しずつ――
静かに、消されていった。

なぜ語らないのか。
なぜ隠したのか。
なぜ、あの夜を曖昧にしたのか。

答えは、今も明かされない。
語るべき者たちは口を閉ざし、
記録すべき報道は、視線を逸らした。

だが――

語られなかったことの中にこそ、
真実が眠っている。


第9章:残された者たちへ

1985年8月12日――
524名のうち、520名が命を落とした日本航空123便墜落事故。

あの日から、40年近い歳月が流れた。

だが、時が過ぎてもなお、
あの尾根に残された“問い”は、消えていない。

検死作業は、酷暑の中、延べ数百名の医師と看護師が従事した。
彼らは、焦げた布の中から歯の一本を見つけ、
わずかな骨片とカルテを照らし合わせて、身元を特定した。

遺族のために――
一人でも多く“帰してあげたい”という思いだけで。

しかしその現場では、
医師である彼ら自身が、遺族から罵倒を浴びることもあった。

「あなたたちは、日航側の人間だろう」
「なぜ説明しない」
「なぜ、遺体がこんなに焼かれているんだ」

その言葉に、誰も何も言い返せなかった。

誰も、本当のことを知らされていなかったのだから。

医師は語る。

「不謹慎ですが、身元が分かったときは、嬉しかったんです。
これでようやく、ご遺族のもとに返せると思ったから」

128日間にわたり、彼女は炭化した遺体と向き合い続けた。
大学病院の仲間と、3人で最後まで現場に残った。

それは、職務を超えた祈りだった。
誰かが、“最後まで見届けなければならなかった”から。

そして、客室乗務員たちの遺体にも、不自然な痕跡があった。

なぜか、制服はほぼ無傷のまま残っていた。
だが、あるスチュワーデスの顔は、真っ黒に炭化していた。

なぜ――
どこで――
どうやって――

答えは、いまだに語られていない。

機長・副操縦士・航空機関士・チーフパーサー・アシスタントパーサー・スチュワーデス

彼らの名は、記録に残されている。
だが、彼らが“何を見たか”は、今もなお封じられたままだ。

真実が語られる日が来るのかは、わからない。

だが、私たちにはできることがある。
それは――知ること。忘れないこと。

風化させないこと。
国家や報道が語らなかった“もう一つの記憶”に、耳を傾けること。

そして、
520名の命と、
それを懸命に見送った人々の祈りに、
静かに、深く、敬意を捧げること。

この物語を、
心に刻んでほしい。

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