脳の性能差について考える

投稿者: | 2009年4月16日

個人個人、身体的能力に能力差があるように脳にも能力の差、性能の差が存在するのだろうか。
倫理的に大きな声でその性能の差があることを公言できないかも知れないが、単純に考えて性能の差が存在することは明らかである。
それがどのような尺度で測れるかは難しい問題であると思いますが、人間が生活をしていく中で単純な計算能力だけではない脳の処理性能数値化できないものかと思いをめぐらせるのであります。
計算が速い、というのも脳の性能を測る上で1つの評価基準ですが、手が器用、記憶力が良い、文字が上手とか話を相手に伝えるのが上手など、結局脳の生理活動の結果出力されるものすべてが脳の性能評価の一つの要因であると思います。
単純に数学が得意だとか二ヶ国語をしゃべれる、化学が得意だ、のような学校の成績の判定材料だけで脳の性能を測ることは出来ませんが、それもまた性能評価の一つの要因であります。
まず基本的には身体的能力(脳の性能も含み)はDNAにより親から子へと遺伝し、その後の修練により磨かれていくと考えます。
器は多きけれど、修練なしにはその性能は発揮されません。
逆に器はそこそこでも、十分に修練すれば基本的性能差を補うことが出来かもしれません。
世の中、学歴社会ではありますが、勉強が出来なくても秀でたものが一つあれば十分だと私は思います。
しかし、ここに一つ疑問があります。
それは「ひらめき」です。
ひらめきも遺伝するのだろうか。
脳の何処かにひらめき力を司る部位があり、ひらめきが起こるのだろうか。
何かの本に「ヒル」(川などに居る生物)の実験で外部から刺激を与えた場合、どのように逃げるか。
泳いで逃げるか這って逃げるかは、脳のある部位の電化の状態による。という実験報告を読みましたが、ひらめきも意外とこれの延長上にあるのかもしれません。
大雑把に言えば単なるエラーの結果なのかもしれません。
エラーの無い人間はきっと人工無能のような味気ないモノになるに違いありません。
脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!?

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